皆さんは舌先三寸という言葉を聞いたことはありますでしょうか?舌先三寸とは、口先の巧みな弁舌のことを言い、下三寸と言われることがあります。
日本では舌先三寸という言葉のイメージはあまりよくありませんが、本来は舌先三寸は世の中をうまく泳ぎまわり要領のいい人生を送るために非常に有効な方法論です。
今回は舌先三寸とは何か、言葉の出典、効果や注意点について解説します。
舌先三寸とは

舌先三寸は心がこもっておらず、口先だけの言葉、誠実さに欠ける物言い、人を言いくるめたりする言い回しを言います。類語としては、口先、舌先等とも表現されます。
江戸時代には舌三寸とも言われていたようです。舌先を少し動かすだけで人を丸め込んだり、口車に乗せたり、物を売りつけたり金を儲けることができる。そのような意味でつかわれる言葉です。
舌先三寸の出典

舌先三寸という言葉の出典は「史記」にある趙の平原君の話です。
平原君とは、戦国時代の趙の武霊王の子である恵文王の弟で、本名を趙勝といいました。
東武城に封ぜられ平原君を号とし食客数千人を養う勢力家でした。斉の孟嘗君、趙の平原君、楚の春申君、魏の信陵君の一人として戦国四君の1人に数えられました。
戦国時代は戦国七雄と称される列国が群雄割拠した時代でしたが、時代を経ると、虎狼の国として野蛮国とみなされていた秦が西方から徐々に東方諸国を侵略ようになりました。
北方に位置した趙国は西で秦国と国境を接しており、趙は秦から圧迫を受けていました。
あるとき、秦は趙の都邯鄲に進撃し、邯鄲を包囲していました。
未曽有の国難に直面した趙王は、王族の中から知恵者として有名であった平原君こと趙勝を呼び、唯一の打開策である他国からの援軍を求め、これを駆けつけさせるよう手配しました。
趙王は平原君に対し、南方の楚王に面会し援軍を要請せよと命じ、平原君は趙の使者として楚に遣わされることになりました。この時、平原君は子飼いの三千とも言われる食客から選りすぐりの20名を同伴させることにしました。
さて、ここで同伴にふさわしい食客を選ぶ段に入り、19人まではすんなり決まりましたが、最後の一人がなかなか決まりません。
人選に考えあぐねてる平原君の前に、毛遂という食客が現れて、「ぜひ自分をお供に連れて行って下さい」と願い出ました。これまで特に取り柄もなく目立たない存在であった毛遂をみて平原君も驚きを隠せませんでした。
毛遂は平原君のところに来て3年経っていましたが名声はなく才能はないと思われていましたが、他の19人と議論をさせてみたところ、19人は皆論破されたのでした。
趙を救うためには楚王を説得し応援を頼むしかない、これに失敗すれば、趙は秦に屈服し危機に逢う。
一行が楚に到着した後、楚王に対し合従し秦に対抗する利を説きましたが議論は一向にすすみません。19人はついに毛遂にも登壇し議論に参加するように頼み、趙の運命を委ねられた毛遂は、楚王に詰め寄って合従は趙のためではなく楚の利益となると王を説き伏せました。
平原君は楚との合従の取りまとめに成功し帰途についたころ楚は趙への救援を行いました。魏も援軍を出撃させました。趙による抵抗、そして楚と魏の援軍により秦は撤退しました。毛遂が楚を説得した成果でした。
毛遂は一たび楚に至るや趙を天子の宝器よりも重からしめた、または毛遂の三寸の舌は百万の兵よりも強力だ、と称賛され、その後、平原君は毛遂を上席の食客として待遇し、今後は人の品定めをしないことを誓ったのでした。
舌先三寸のまとめ

今回は趙の平原君が使った舌先三寸について紹介しました。
中国人は暴力や威嚇という費用が掛かり国力を消耗する「武」の出動を忌避し、できれば少ない投下資本と少ないリスクで大きなリターンを得ることを賞賛する価値観を持っています。
大兵力を投入し、国力を消耗しながら戦争を行えば国を疲弊させながら戦争に勝利することは普通にできるでしょう。でも戦争に勝っても国が消耗してしまえば何も意味はありません。
格闘で勝利しても自身の体を壊してしまうなら何の意味もない、むしろ有害です。中国人はそれらの損得をよくわかっています。最も少ないリソースで最大の利得を得る。
この考え方は古代から現在の普遍的な心理です。これは実際には中国人に限ったことでなく、人間だけに限られず、弱肉強食の動物の社会、それに及ばず植物やあらゆる生命体の生存戦略に影響する不変のものです。
舌先三寸は中華社会では弁舌のたつ人を賞賛する肯定的な意味で使われてるようです。報われない地道な努力や辛抱より、舌先三寸で利益は取れます。楽して儲けるスタイル、これが昔から一番得する生き方です。
このブログが皆さんが要領よく生きるための参考になれば幸いです。
